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九日藍田崔氏莊 <杜甫> [漢詩]

  

九日(きゅうじつ) 藍田(らんでん)の崔氏(さいし)の莊(そう) 杜甫
老い去って悲秋 強いて自ら寬(ゆる)うす
興来って今日(こんにち)君が歓を尽くす
羞ずらくは短髪を将(も)って還(ま)た帽を吹かるるを
笑って旁人(ぼうじん)を倩(たの)んで為に冠を正さしむ
藍水は遠く千澗より落ち
玉山は高く両峰と並んで寒し
明年此の会 知んぬ誰か健なる
酔うて茱萸(しゅゆ)を把(と)って仔細に看(み)る


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杜甫が左遷のさなか友人の別荘で9月9日の節句で詠ったようだ。
来年の心配もする。
イケイケの時なら120まで生きるなど豪語するものでしょうが、
杜甫といえどもブルー状態であり自虐的になるのでしょう。

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漢詩の朗読 左大臣光永






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恋川春町 [江戸]


 我もまた 身はなきものと おもひしが いまはのきはは さびしかりけり


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 田沼期の戯作者、浮世絵も得意だったという。
駿河小島藩松平家に仕えて年寄役までなり出世するが、
副業も忙しく充実していたようだ。
が、松平定信により一転。幕府の呼び出しに病気として応じず、
隠居して塁が及ばぬよう速やかに自害したのでしょう。

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 浮世絵 恋川春町 天竺老人




p243
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328 平城遷都 小野老 [万葉集]


 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
           

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 大宰府次官の小野老が奈良を絶賛しているが、
長官の大伴旅人を囲んだ宴会での歌で望郷の想いが込められているという。
 

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万葉歌人 大伴家持 ~多賀城へのいざない~


古代史の道





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道場坊祐覚 [中世]


 大方の 年の暮ぞと 思しに 我身のはても 今夜(こよひ)成けり


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 京に81mの塔があったという。法勝寺で白河天皇が1075年に造営を始められる。
時代を経て、ここの律宗の僧だったという道場坊祐覚が隠岐を脱出した後醍醐天皇方で働くも、帝が花山院に幽閉せられたとき足利直義に捕まり斬られたという。

箱根竹下合戦では稚児十人同宿三十余人の集団だったが、稚児8人が斬られて逆襲したようだ。

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幻の法勝寺八角九重塔


「太平記」箱根竹下合戦の事(その3)




p236
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夜ル窃ニ 虫は月下の 栗を穿ツ [芭蕉]


 よるひそかに むしはげっかの くりをうがつ


延宝8年(1680) 37歳

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「和漢朗詠集」の「夜ノ雨ハ偸(ひそ)カニ石上(せきしょう)ノ苔を穿ツ」から得た着想で、虫が月下の栗を穿つ句を書いた。それはそれで賛辞に値することだが、
さらに、芭蕉の妾の話だったことがDOKKOU氏は解説してくれていた。
が、山梨県立大学芭蕉DBでは「採らない」とされており、角川書店編の解説本では一切触れられていない。

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DOKKOU


山梨県立大学 芭蕉db







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長野主膳 [幕末]


 飛鳥川 きのふの滝は けふの瀬と かはるならひを わが身にぞ見る


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 「戊午の密勅」を見逃したことの怒りが安政の大獄に至る。
直弼死後、彦根藩では直弼の息子直憲が藩主となるが、文久の改革の中で、
井伊家の罪が問われる中、スケープゴートとにされ斬首となったそうだ。


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井伊の懐刀・長野主膳義言48年の生涯~乱世を駆け抜けた和歌の先生 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)



p253
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張生を送る <歐陽修> [漢詩]

  

一別 相ひ逢ふ  十七春,
頽顏 衰髮  互に相ひ詢ふ。
江湖 我は再び  遷客と爲り,
道路 君は猶ほ  旅に困むの人。
老驥 骨 奇にして  心 尚ほ壯,
青松 歳 久しくして  色 逾よ新なり。
山城 寂寞  禮を爲し難きも,
濁酒 辭する無かれ  爵を擧ぐること頻なるを。


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17年ぶりの再会となる。作者は左遷されたことに触れるが、
名馬の風格や松の老木の鮮やかさで喩えているとはいえ、
「俺は左遷とはいえ正社員だ、お前はプータローだな」と聞こえるやもしれない。
これは、マウントとられたと不快になる人もいるでしょう。
受け手の心理状況によるのでしょう。

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詩詞世界






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信海 [幕末]


 西のうみ 東のそらと かはれとも こころはおなし 君か世の為め


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月照の弟は捕まり江戸で獄死だという。
月照と行動を共にした近藤正慎は獄中で月照のことを聞かれたが、
舌を噛み切り自殺したという。俳優近藤正臣氏(『太平記』の北畠親房)の曽祖父だそうだ。

西郷が辞世を更新しなかったことから、月照生存説は考えにくい。
安政の大獄の恐怖を再確認いたしました。

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清水寺「月照・信海両上人の歌碑」


清水寺の幕末秘話・勤王の志士を支えた漢(おとこ)たち



p253
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318 富士の高嶺に雪は降りける 山部赤人 [万葉集]

 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (318)


 田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (新古今集)
           

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 小倉百人一首での記憶があったが微妙に違う。
「ゆ」が通過地点を表すが平安時代で使われなくなり、「新古今集」で書き変えられた。
「真白にぞ」という直接表現から「白妙の」と布の白さで喩え、「ける」を「つつ」に変えた。それも洗練され見事ですが、万葉集の素朴な感動も味わい深いものです。


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詩歌紹介 公益社団法人 関西吟詩文化協会




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白鯉館卯雲 [江戸]


 喰えばへる ねぶればさむる 世の中に ちと珍しく 死ぬるもなぐさみ


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木室卯雲(1714―83)幕臣で文人だったという。
江戸文化史に残るが、「さすが狂歌師」と素人でも凄いと唸ってしまう辞世でした。

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国立公文書館

下町の興行 社団法人 東京都地質調査業協会



p243
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