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戦没学生の手記から 六 [昭和]


 君がため われゆくてふに うからやから 来りどよもす 雪の朝かも

 はたとせと 三つのいのちは うつしよに かふるものなし 母のふみみる
 
                          

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 井上長(ひさし)。文一。昭和20年7月24日。海軍中尉。23歳。
「うからやから」は親族。「どよもす」は騒がせる。だそうだ。
1首目は学徒出陣の際だという。連作の1つだそうだが趣味としても年季が入っていそうです。

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―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)





p267
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戦没学生の手記から 五 [昭和]


 かくてこそ 人も果てなむ 爆雷に 打たれて魚 数多浮きをり

 蒼く澄みて 鴎の遊ぶ この波の 底黝(うすぐろ)き 死の光あり

 食もなく 衣寒くも ただ一日(ひとひ) 
              母子(おやこ)集ひて 語らむをのみ
                       
                           (馬場充貴)

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 ベトナムのナトラン沖で戦死。3首目は「母の希ひ」の枕詞があるという。
そう書いて自分の願いなのでしょう。


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―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)



p267
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戦没学生の手記から 四 [昭和]


 
 爆音を 壕中にして 歌つくる あはれ吾が春 今つきんとす
                          蜂谷博史


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昭和19年12月硫黄島で戦死。
胸に迫ってきました。さすが帝大国文科。死に花なのでしょう。

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きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)




p267
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戦没学生の手記から 三 [昭和]



 遥々と 浪路おし分け 征く船の 跡しらじらと 白浪みだる
                           宇田川達

 
 およばずを 知りつつ汽車に 手をふりて 走る従妹に 顔をそむけぬ
                           鈴木保次
 


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 二度と会うことは無いやもしれない、残る者たちも苦労するだろう。
涙を禁じ得なかったのでしょう。

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きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)




p267
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戦没学生の手記から 二 [昭和]



喜びも はた悲しみも 何かせん この一瞬(ひととき)を 幸とこそ知れ
                              (筒井厚)

はろばろと まばゆき海を 椰子の実の うきつつ遠く なりにけらしも
                              (深沢恒雄)

わが妹は 母しなければ とつぐ今日 誰が帯結び 装ひするらむ
                              (松本光憲)


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3つ目は昭和20年5月入営し、沖縄に向かう途次に妹に贈ったという。
母の代わりに叔母さんなり従姉妹なりがやってくれるのでしょうが、
お母さんにして欲しかったよな、と語りかけたのでしょう。
その兄もその月15日に戦死したという。

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きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)





p266
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戦没学生の手記から 一 [昭和]



手折りたる 土筆なつかし 故郷の 妹がつみしも 同じこの季節
叱られて 土掘る兵は 愛(かな)しけれ 世にある時の 姿想へば
                             山岸久雄

この朝け 遺言状など 書きをりし 戦友なりしかな 泪にじみ来
                             竹村孝一


消ゆべきは 跡なく消えて 夜の海に 巨大空母は ひた燃えさかる
デング熱に 身体痛めば 苦しさに つい名を呼びぬ 椰子を打つ風
                             榊原大三



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 「きけ わだつみのこえ」からだそうだ。三人とも東京帝国大学だった。
病気で内地送還となっても陸軍病院で亡くなったり、中国の華中での戦死、
パラオペリリュウ島での戦死だった。

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きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)




p266
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松井石根 [昭和]

 天地も 人もうらみず ひとすじに

  無畏を念じて 安らけく逝く


 いきにえに 尽くる命は 惜かれど
  
  国に捧げて 残りし身なれば


 世の人に のこさばやと思ふ 言の葉は

  自他平等に 誠の心

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 情報は複数から得なければならないことを再確認。
個人的にはかなり蒋介石や中国に入れ込んでいた人だったようだ。
秦郁彦氏は実証的には4万前後と推測され、著書で
「全軍規模で軍紀が崩壊したのだから・・・・最高指揮官松井大将の責任」
と指摘したという。
蒋介石は涙ながらに松井を(大虐殺という)冤罪で処刑されたと語っている。

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A級戦犯と呼ばれた英雄達

検証・戦争責任 読売新聞




p182
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沖縄戦 [昭和]

 矢弾尽き 天地染めて 散るとても

  魂環りつつ 皇国護らん


 秋待たで 枯れ行く島の 青草は
 
  皇国の春に 甦らなむ
                 牛島満


 大君の 御はたのもとに 死してこそ

  人と生まれし 甲斐ぞありけり
                 太田実


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牛島満陸軍中将の「皇国の春に甦らなむ」
大田實海軍少将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」

高校生の時に沖縄の地を歩いたが、ひめゆりの塔の記憶はあるものの
海軍が掘った地下壕は考えもしなかった。
後悔はしてませんが、悔やまれます。残念ですね。

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牛島満陸軍中将(在沖縄第32軍司令官)訣別の辞

旧海軍司令部壕



p172
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栗林忠道 [昭和]

 国の為 重き努を 果たし得で

  矢弾尽き果て 散るぞ悲しき


 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又

  七度生れて 矛を執らむぞ


 醜草の 島に蔓る 其の時の

  皇国の行手 一途に思ふ


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イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』を観る。
海岸沿いで敵を迎え撃つ水際作戦の反対を押し切り地下壕を作り戦う。
約21000で約5倍の上陸部隊を迎え撃ち5日間での攻略予定を1月以上持ちこたえたという。
「国の為」や「皇国」を使う表現でも、この方が使うのは頭を下げるのみです。

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栗林忠道 最後の言葉~辞世の句

明徳寺にある陸軍中将 栗林忠道之墓



p170
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東條英機 [昭和]

 我ゆくも またこの土地に かへり来ん

  国に報ゆる ことの足らねば


 さらばなり 苔の下にて われ待たん

  大和島根に 花薫るとき


 散る花も 落つる木の実も 心なき

  さそうはただに 嵐のみかは


 今ははや 心にかかる 雲もなし

  心豊かに 西へぞ急ぐ 


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辞世を遺したことで葬儀業界の宣伝にも使ってもらえる。
辞世の力は偉大なのでしょう。

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いい葬儀



p180
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