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山上憶良 [上代]



 士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろづよ)に

     語り継ぐべき 名は立てずして


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遣唐使の随員として長安にも行き、後の聖武天皇の東宮時代の教育も務めたという大秀才だが前半生が分からないという。伯耆の国主もするが、従5位下と低かった。
藤原不比等と同時代でもあり、穏やかな辞世を書く気にならなかったのやもしれません。
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鳥取県・とりネット




p23
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大津皇子 [上代]



 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ


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 后山辺皇女の殉死が日本書紀に書かれていた。
姉の大伯皇女は二上山を見続ける。
↓のページで磐余の池のあった場所の写真、歌碑など一読する。
敬虔なブロガーに少し感動する。

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万葉歌碑巡り【大津皇子辞世の句】磐余の池跡地にて大伯皇女と共に偲ぶ みくるの森




p19
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大伴家持 [上代]



 新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)


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 『辞世百人一首』の解説は詳しい。他界する20年前の歌で歌わなくなる。
『万葉集』最後の歌とした。
「雪のように積もれよ、良ことが」と望みを歌ったが、
現実の動きは、ゆったりと歌人として過ごすことが許されなかったようだ。
日を改めて、家持を学びたいですね。

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辞世の句(その2)奈良時代 大伴家持・山上憶良




p25
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有間皇子 [上代]



 磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む


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 万葉集141番歌でした。
『辞世百人一首』の解説では、中大兄皇子が主人公となっていた。
義父蘇我石川麻呂を攻めたことで自殺したことで妻も自殺したようだ。
母を失った持統天皇は大海人皇子の后となる。
そして中大兄皇子は前天皇の孝徳天皇を父にもつ有間皇子を殺害した。

天智天皇が漫画でどういう描き方をされているのだろうとググってみたが、
美形であったり、BL風もあり、とてもリンクしたいとは思えませんでした。

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有馬皇子(ありまのみこ)の歌



p17
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日本武尊 [上代]


 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 倭しうるはし

 嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや
  

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 兄の手足をもぎ取り父に恐れられ、熊襲建兄弟の討伐、出雲、帰ってきたら東国へ行けと命ぜられたという。
猛々しい青年だったようだ。「草那芸剣」と正確な書き方を知る。

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辞世の句最期のことばデーター倉庫


和歌の世界




p15
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弟橘比売 [上代]

 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも



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 日本武尊をヤマトタケルノミコトと呼ぶようだ。景行天皇の皇子で、
九州の熊襲、東国の蝦夷を征討したという。
妻であるオトタチバナヒメが荒れた海を鎮めるために、
畳24枚を波の上に敷いて自分が座って辞世を詠んだ。相模での戦いの際のことだった。
夫が無事に上総に着いたら妻の櫛も流れついたという。
私なら畳を運ぶ作業をやめさせるでしょう。見てられません。

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夫婦愛の女神 オトタチバナヒメ 歴memo





p12
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柿本人麻呂 [上代]


鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ


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万葉集でも触れたが、辞世として再度。
島根県江津市のページは写真が多く分かりやすい。

壺齋散人氏の解説を読み、柿本人麻呂の人物にこれほど多様な解釈があるのかと驚く。
斎藤茂吉の下級官僚説、高官だが刑死した梅原猛説。伊藤博の持統天皇を追っての殉死説があるという。
分からないまま味わうものなのでしょう。

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万葉の歌碑めぐり 島根県江津市

ー壺齋散人の万葉集評釈ー




p21
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