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本間資忠 [中世]


 
 まてしばし 子を思ふ闇に 迷ふらん 六つのちまたの 道しるべせん



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楠木正成の赤坂城を攻めた父が戦死。その弔い合戦前に天王寺の鳥居に血で書いたという。
父子の忠臣として太平記に記され浮世絵にもなったようだ。


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年英 英雄三十六歌撰 本間資忠 | 浮世絵 | 原書房 神田神保町


本間資忠 立命館大学アート・リサーチセンター



p235
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葉室宗行 [中世]


 今日過ぐる 身を浮嶋の 原にてぞ つるの道をば 聞き定めつる 


(浮島の原で死の淵から浮かび上がれるかもしれないと期待していたが、終わりを迎えることが分かり覚悟を決めた)


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 父が藤原行隆で10歳の頃、葉室家の養子となる。
後鳥羽院の側近となり、承久の乱後、鎌倉への護送途中の宿で処刑。
どうやら漢文を書きつけた後に詠んだようだ。

 
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葉室宗行の半生 和樂web


30年かけて語る日本史





p235
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人見四郎 [中世]


 花さかぬ 老木の桜 朽ちぬとも その名は苔の 下に隠れじ


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 楠木正成の赤坂城攻めの前夜、天王寺の石の鳥居に辞世を書き付けたという。
当時、73まで生きたこと自体、かなりの家だったのでしょう。
先駆けして討ち死にしたというが、辞世を残し本望でしょう。


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人見屋敷




p235
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道場坊祐覚 [中世]


 大方の 年の暮ぞと 思しに 我身のはても 今夜(こよひ)成けり


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 京に81mの塔があったという。法勝寺で白河天皇が1075年に造営を始められる。
時代を経て、ここの律宗の僧だったという道場坊祐覚が隠岐を脱出した後醍醐天皇方で働くも、帝が花山院に幽閉せられたとき足利直義に捕まり斬られたという。

箱根竹下合戦では稚児十人同宿三十余人の集団だったが、稚児8人が斬られて逆襲したようだ。

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幻の法勝寺八角九重塔


「太平記」箱根竹下合戦の事(その3)




p236
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相模三浦氏 [中世]


 討つ者も 討たるる者も 土器(かはらけ)よ

  砕けて後は もとの土くれ
                 三浦義同(よしあつ)


 君が代は 千代に八千代も よしやただ

  うつつのうちの 夢のたはぶれ
                 三浦義意(よしおき)


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 1247年の宝治合戦で三浦一族が滅ぼされたが、庶流の盛連系が生き残り三浦氏を再興する。後に扇谷上杉氏に仕えるが、時高に子がおらず主家から養子を迎える。
が、北条早雲に敗れることになったという。

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扇谷上杉家に仕えた相模の名家、後に早雲により滅ぼされる 相模三浦



p28
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太田道灌 [中世]


 昨日まで まくめうしわを 入れ置きし

  へむなし袋 いま破りけむ


 かかる時 さこそ命の 惜しからめ

  かねて無き身と 思ひしらずば


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 江戸城を最初に築城、江戸の礎を完成させた人物だそうだ。
また、28年続いた享徳の乱と長尾景春の乱を解決する「都鄙合体」という和議を成立させたという。詳細は分からないが、経緯でとてつもないことだとは分かる。

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太田道灌-歴史上の実力者 - 刀剣ワールド



p22
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悲劇の兄弟 [中世]


 夏草や 青野が原に 咲くはなの

  身の行衛こそ 聞かまほしけれ
                 足利春王丸

 身の行へ 定めなければ 旅の空

  命も今日に 限ると思へば
                 足利安王丸

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 鎌倉公方の父持氏は将軍義教の対立し敗北自害。兄弟は結城氏朝に匿われるが、
結城も敗れ二人は護送中に義教の命で殺害されたという。
その後、義教も暗殺され、2人の弟万寿王丸が生き残ることになるが、
彼は後に足利成氏となり古河公方となる。

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 春王・安王の墓



p20
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北条貞俊 貞俊妻 [中世]


 皆人の 世に有時は 数ならで

  憂にはもれぬ 我身也けり
               北条貞俊


 誰見よと 信を人の 留めけん 

  堪て有べき 命ならぬに
               貞俊妻

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 高時に冷遇され後醍醐天皇に降るが、北条殲滅の方針となり斬首となったという。
太刀と小袖が形見として届けられたが、妻はその場で自害したそうだ。

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北条 貞俊 Henkipedia



p14
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北条基時 [中世]


 待てしばし 死出の山辺の 旅の道

  同く越て 浮世語らん

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1315年に執権になるも1年で交代。高時への中継ぎだった。
この頃は内管領の長崎高資に実権があった。
新田義貞が鎌倉へ攻めてきて激戦の末自害したという。
先に戦死した息子へ「待て」と語っている。

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鎌倉幕府13代執権/北条基時 - 刀剣ワールド



p14
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足利義尚 [中世]

 


 ながらへば 人の心も 見るべきに

  露の命ぞ はかなかりけり


 出づる日の 余の国までも 鏡山と

  思ひしことも いたづらの身や



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8代将軍義政が弟義視を還俗させ後継者としたが義尚が誕生し応仁の乱となったと説明されることがあるが、実は義視を先に将軍にして義尚へ継ぐことにしたようだ。
が、大名家の抗争に将軍継嗣問題が利用されて応仁の乱になったという。
父母に実権を要求してきたが25にして死亡。

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<参考>


刀剣ワールド



p26






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