57. 紫式部 [百人一首]
めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かげ
----------
同性の友人のことを詠むが、表向きは月が雲隠れしたことを表現する。
一条朝でのサロンで活躍したという。
父の越前赴任についていき、帰ってから藤原宣孝との間に娘大弐三位が誕生したようだ。
----------
ちょっと差がつく『百人一首講座』
小倉百人一首の全首を見る
山本五十六 [昭和]
大君の 御楯とただに 思ふ身は
名をも命も 惜まざらなむ
--------------
昭和14年(1939)に連合艦隊司令長官着任時に詠んだという。
万葉集を携えていたそうだ。
歌を拝読する限り立派だと思いますね。
--------------
<参考>
山本五十六記念館
p168
56. 和泉式部 [百人一首]
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな
----------
死間際に送った歌だという。恋多きといっても倫理に反することはないのでしょう。
感性は与謝野晶子や中島みゆきに当たるようだ。
お墓が全国に10数か所あるというが、そんな人聞いたことないですね。
----------
ちょっと差がつく『百人一首講座』
小倉百人一首の全首を見る
乃木希典、静子 [明治・大正]
神あかり あかりましぬる 大君の
みあとはるかに をろみかまつる
うつし世を 神さりましし 大君の
御あと慕ひて 我はゆくなり
乃木希典
出でまして かへります日の なしときく
けふの御幸に 逢ふぞかなしき
乃木静子
--------------
悲しいですね。明治大正の頃は静子さんが多かった。
広田弘毅の妻静子も自決。私の祖母は自決ではないが母を生んで若くして死亡。
名は身体や運気に影響を与えるのかと考えてしまいますね。
--------------
<参考>
この写真の撮影日に夫婦共に自刃。明治天皇に殉死した乃木希典が神として崇められるまで
伏見・桃山 乃木神社
p160
55. 大納言公任 [百人一首]
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
----------
嵯峨天皇の離宮だった場所だが滝は枯れてしまったが名声は聞こえるという。
それで「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになったそうだ。
技巧でないストレートな響きが実にいいですね。
----------
ちょっと差がつく『百人一首講座』
小倉百人一首の全首を見る
近藤勇 [幕末]
孤軍援絶作俘因 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩
--------------
さすがですね。かっこよく去っていきました。
ひらがなを使いたくないという頑固さで鉄の規律が保たれていたのでしょう。
--------------
<参考>
近藤勇 最後の言葉~辞世の句 Tactical-Media
p144
54. 儀同三司母 [百人一首]
忘れじの 行末までは かたければ
今日をかぎりの 命ともがな
----------
伊周の母の新婚の頃の歌で、技巧は無いがストレートな心情を表現していた。
伊周が恋していた女性の元へ別の男性が通っていると疑い襲撃すると
花山院だったという事件で、道長に利用され左遷され一家は没落したという。
その不幸を知っていた定家がこの歌を選んだようだ。
----------
ちょっと差がつく『百人一首講座』
小倉百人一首の全首を見る
佐々木只三郎 [幕末]
世はなべて うつろふ霜に ときめきぬ
こころづくしの しら菊のはな
まかなもて わにの川水 にごす世を
清き流に かえすきみかな
--------------
会津藩士、京都見廻組幹部。清河八郎暗殺。
明治3年に見廻組の今井信郎が7名で坂本竜馬と中岡慎太郎を襲撃したと自供。
今井は見張り役で、後にクリスチャンとなる。
率いてたのが佐々木だったようだ。
--------------
<参考>
佐々木只三郎とは何者だったのか?写真やエピソードを紹介!見廻組を率いて京都を守った剣の達人
p142
53. 右大将道綱母 [百人一首]
嘆きつつ ひとり寝る夜の あくる間は
いかに久しき ものとかは知る
----------
蜻蛉日記の作者だそうで、谷氏の解説では、中に入れずに追い払い、
朝に送った歌で、色変わりした菊を添えたそうだ。
が、明け方に来た藤原兼家を中に入れて菊を渡した説もあるようだ。
----------
ちょっと差がつく『百人一首講座』
小倉百人一首の全首を見る
藤田小四郎 [幕末]
かねてより 思ひ初めにし 真心を
けふ大君に つげて嬉しき
咲く梅は 風にはかなく にほひは君が 袖にうつして
--------------
横浜即時鎖港で決起したという。62名から1400人に膨れ上がったのも、
経済状態が悪かったのでしょう。
加賀藩は丁重に扱ってくれたが、彦根藩に預けられ最悪の状態となる。
幕府軍総督田沼意尊に裁判らしい裁判などなく斬首。胴体は集団で穴に入れられる。
--------------
<参考>
藤田小四郎の辞世の句や最後の言葉の意味は?渋沢栄一からの評価についても 足長パパのブログ
p138