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廬山の瀑布を望む <李白> [漢詩]

 日は香炉を照らし紫煙生ず

 遥かに看る瀑布の前川に挂くるを

 飛流直下 三千尺

 疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと


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 写真で見ると素晴らしい景色であるものの三千尺(約1000m)は誇張だった。
李白は壮大で迫力ある詩が特徴のようだ。
収録されている音声を聞く。私も初めて小声ですが歌ってみました。
息が続かないです。詩吟の練習はやり過ぎると喉を痛めそうなので気をつけるべきなのでしょう。続くかは分かりません。

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漢詩紹介 公益社団法人 関西吟詩文化協会






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波多野兄弟 [戦国]

 よわりける 心の闇に 迷わねば
  
  いで物見せん 後の世にこそ
                波多野秀治

 おほけなき 空の恵みも 尽きしかど

  いかで忘れん 仇し人をば
                波多野秀尚


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 足利義昭を信長が奉じた時期に赤井直正と波多野兄弟が信長に仕えたが、
義昭が去ることで、彼らも反信長となる。
光秀の丹波攻めで裏切った波多野兄弟を兵糧攻めにし降伏させたようだ。
光秀は命を保証したが、安土に送られた兄弟は信長に磔刑にされたという。
呪いたくなるでしょう。

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波多野秀治の辞世 戦国百人一首76

波多野秀尚の辞世 戦国百人一首77



p52
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貧交行 <杜甫> [漢詩]

 手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨

 紛々たる軽薄 何ぞ数うるを須いん

 君見ずや管鮑貧時の交わり

 此の道今人棄つること土の如し


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 一行目は使えそうですが、嫌味な感じがするだけでしょう。
言葉の勉強になると思えば面白いですね。
杜甫が科挙に落ち貴人を訪ねるも門前払いだったという。41での歌だそうだ。
身につまされます。

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漢詩紹介 公益社団法人 関西吟詩文化協会







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島津忠良 [戦国]

 急ぐなよ 又とどまるな 吾が心

  定まる風の 吹かぬかぎりは

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 分家だったが貴久を守護にした。見事ですね。
辞世も「命」「生」「死」という語を使わず表現している。
「定める」のは天なのでしょう。 

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【島津忠良】最強島津の元祖!逸話と名言~薩摩のゴッドファーザー

島津日新斎の辞世 戦国百人一首⑫




p42
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楓橋夜泊 <張継> [漢詩]

月落ち烏啼いて 霜天に満つ

江楓の漁火 愁眠に対す

姑蘇場外の 寒山寺

夜半の鐘聲 客船に至る


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柄にもなく漢詩を始めてみます。
文法、周辺知識も皆無に近いですが、
1冊読む中で少しは身につくと期待したいですね。

姑蘇場外の寒山寺を調べてみました。
なるほどです。

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漢詩紹介 公益社団法人 関西吟詩文化協会






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武藤章 [昭和]

 霜の夜を 思い切ったる 門出かな

 散る紅葉 吹かるるままの 行方哉


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 盧溝橋事件時、参謀本部作戦課長で、部長の石原莞爾は事件不拡大現地解決の方針だったが、武藤は内地の三個師団派遣の準備を進めたという。
「愉快なことが起こったね」と面白がったようだ。

対米開戦には反対していたが、東條から「巻き添えにしてすまない」と謝罪を受けたそうだ。

 熊本学園大学の創設にかかわったという。

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検証・戦争責任:読売新聞

熊本学園大学 学長メッセージ



p187
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100. 順徳院 [百人一首]

 百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも

  なほあまりある 昔なりけり 


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 『小倉百人一首』では天智天皇・持統天皇親子に始まり、後鳥羽院・順徳院親子で終わる。
定家は後鳥羽院の逆鱗に触れ出禁となるが、承久の乱後に義弟の引き立てで復活。
後堀河院に命じられた『新勅撰和歌集』での単独選集だったが、院の崩御の後に九条道家に後鳥羽・順徳両院の削除を命じられたという。
宇都宮頼綱の依頼で『百人秀歌』をまとめたのがベースだが、そこでも両院は外される。
しかし、『百人一首』に加える。ここに定家の強い意思があったようだ。
選んだ歌人と和歌は、不遇だった頼綱の心情も考え定家がまとめたという。

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ちょっと差がつく『百人一首講座』

小倉百人一首の全首を見る











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本間雅晴 [昭和]

 戦友(とも)眠る バタンの山を 眺めつつ

  マニラの土と なるもまたよ志


 予(かね)てより 捧げし命 いまここに

  死所を得たりと 微笑みてゆく


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異例の早さでの処刑はマッカーサーの復讐だという。
将校は囚人服で絞首刑が多かったが本間は略式軍服で銃殺刑だったという。
名誉を重んじられたが、妻の証言の影響のようだ。

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本間 雅晴 辞世の句 (陸軍中将) 

『本間雅晴中将とその夫人』



p179
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99. 後鳥羽院 [百人一首]

 人もをし 人も恨めし あぢきなく

  世を思ふ故に もの思ふ身は


099_gotobain.jpg

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 後鳥羽院33、建暦二年(1212)の歌だそうだ。憂鬱と苦悩が伝わってくる。
定家を重用したが衝突し関係が破綻したという。
定家も院に愛憎があったのでしょうが、苦笑しながら懐かしんだのやもしれません。

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ちょっと差がつく『百人一首講座』

小倉百人一首の全首を見る










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大西瀧治郎 [昭和]

 これでよし 百万年の 仮寝かな

 すがすがし 暴風のあと 月清し


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 神風特別攻撃隊の創始者の一人。8月16日に自決。
介錯なしで半日苦しむことを選んだという。
幅広い人脈があったようだ。

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航空特攻司令長官・大西瀧治郎海軍中将の残した遺書 竹内しげやす 市政チャレンジ日記


p176
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