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織田信孝 [戦国]

 昔より 主を内海の 野間なれば

   報いを待てや 羽柴筑前




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 恐ろしいですね。母の家格が低いために信勝より20日早く誕生したが弟にされる。
当然に次男とされた信雄に面白くないだけでなく、不満が蓄積していたのでしょう。
清須会議で織田家を継いだのが三法師だった。
秀吉が言う前に三法師が筋だと自ら主張して秀吉を支えるという選択は現実には難しいのやもしれません。

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<参考>



織田信孝の辞世 明石 白(歴史ライター)


織田信孝が自刃した安養院 日々史跡めぐり




p66







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26. 貞信公 [百人一首]



  小倉山 峰のもみじ葉 心あらば

   今ひとたびの みゆき待たなむ



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 同じ「みゆき」でも天皇なら行幸、上皇なら御幸だという。
掛詞などの技巧は特になくとも、ストレートに自然に語りかける綺麗な歌でした。
貞信公は藤原忠平で兄時平と菅原道真が対立し、左遷した道真の怨霊で兄一族が滅亡したという。忠平系は繁栄したそうだ。

この小倉山の麓に定家の山荘もあったという。

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毛利元就 [戦国]

  友を得て なおぞ嬉しき 桜花

   昨日にかはる 今日のいろ香は



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 前回の大内義長が忘れられないですね。
が、謀略、暗殺は戦国の常であり、その世の中で、元就は現実として勢力を拡大した。
傑出した人物であり、その晩年の心の余裕が表れたのでしょう。

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<参考>


毛利元就 最後の言葉~辞世の句 Tactical-Media




p44







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25. 三条右大臣 [百人一首]



   名にし負はば 逢坂山の さねかづら

     人に知られで くるよしもがな



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 恋人に送っているのならともかく、気持ち悪いでしょう。
現代ならネットに晒されて社会的生命を失うやもしれません。

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大内義長 [戦国]

  誘ふとて 何か恨みん 時きては

    嵐の外に 花もこそあれ



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自分の努力で何とかなる時代ではなく、自刃に追い込まれる。
大河『毛利元就』では主人公に感情移入していましたが、経緯と辞世を読むと、大内義長の不憫に心が沈んでしまいます。

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<参考>


大内義長 辞世の句


大内義長の墓(功山寺)




p35







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24. 菅家 [百人一首]


  このたびは 幣も取りあへず 田向山

   紅葉の錦 神のまにまに



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 道真が詠んだという。右大臣の時に宇多上皇の宮滝御幸に随伴した際に、
幣を用意してなかったので、田向山の紅葉を幣として手向けます、という歌だった。
田向山の紅葉全てを捧げますというスケールが大きく、道真だから歌えたのやもしれません。

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諏訪頼重 [戦国]



  おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の

   主あらばこそ 又も結ばめ



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 信玄の妹禰々(ねね)の婿だが自刃に追い込まれた。娘の諏訪御料人と信玄の間の子が勝頼で、「頼」が諏訪氏の通字だった。
兄に夫を殺された禰々が自害、子の寅王が処刑になったようだ。

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<参考>


明石 白(歴史ライター) 諏訪頼重の辞世 戦国百人一首85




p30







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23. 大江千里 [百人一首]


  月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ

   わが身一つの 秋にはあらねど



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「燕子楼」という漢詩の設定を和歌にしたという。
下の句の言外に「私一人のために秋が訪れたような気がする」の意があるそうだ。
更に式子内親王は「わが身一つの 秋ぞふけゆく」と歌う。
日本では平安時代に「秋は悲しい」という感覚が一般化したというが、
こういう和歌で明らかになるのかと学ぶ。

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山名氏清 [中世]



  取りえずば 消えぬと思へ 梓弓

   引きて帰らぬ 道芝の露


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 楠木正成の孫の正勝が義満へ奇襲したのを防いだ功績があったが、
6分の1もあった11国の山名家を弱体化させるための義満の介入に利用され、戦うことになり、戦死したという。
大河『太平記』最終回を見終えたが、尊氏と違い義満は根っからの陰謀家なのかと、恐ろしくなりました。

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<参考>


明徳の乱 - 刀剣ワールド

山名氏清碑 KA160



p18







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22. 文屋康秀 [百人一首]


  吹くからに 秋の草木の しほるれば

   むべ山風を あらしといふ



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 山風が草木を「荒らし」と「嵐」が掛詞となっており、また文字遊びをしている。
合わせ技を康秀は披露した。
中国六朝時代に流行した離合詩に影響を受けた遊びだという。
「梅」を「木」と「毎」に分けた紀友則の歌もあった。面白いものです。

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