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167 日並皇子殯宮挽歌 柿本人麻呂 [万葉集]

天地の初めの時、天(あま)の河原(かはら)に八百万(やほよろづ)、千万(ちよろづ)の神々がお集まりになって、神の領分を相談なさった。天照大神(また、さしのぼる日女の命、という)が天界を支配なさることにした。葦原の瑞穂の国(この日本の国)、すなわち、天地の寄り合う極みまでを支配なさる神として、天雲を八重かき別けて(または 天雲の八重雲別けて、という)一柱の神をお下しになった。その日の御子は飛ぶ鳥の清御原の宮で、神のままに統治なさった。そしてこの国は天皇が支配する国とおっしゃって、天の原の岩戸を開いて神としてお上りになった。(あるいは、神として登られたので、という)。そこで、われらが大君となられる皇子の命が天の下をお治めになる世は春の花のように貴くめでたいことだろう。満ちる月のように満たされるだろうと、天下方々の人々は大船に乗った気持で皇子を仰いでお待ちしていた。が、何と思われたのか、ゆかりのない真弓の岡に(奈良県高取町)宮柱を太々と建てられ、御殿を高々と建てられたが、朝の御言葉もなく、日月が積もり積もってしまった。それ故、皇子の宮人は途方に暮れている。(また、皇子の宮人たちは途方に暮れたまま、という)

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持統天皇3年(689)に草壁皇太子が28で薨去したという。
柿本人麻呂が歌ったのは記紀前であり、日本を治めるために
降臨したのは飛鳥浄御原だという。天武天皇と重ねているようだ。

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