822 白梅と雪 大伴旅人 [万葉集]
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
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大河で伊周が大宰府左遷を赤子のように拒否したのが驚きだった。
そこまで嫌がるものなのかと。
そう考えれば大伴旅人が大陸の遊びを日本風に変えての楽しむ様子は立派なものです。
白梅を雪に見立てるのか、実際に小雪が降っていたのか風流と余裕を感じます。
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小倉山荘
安岡嘉助 [幕末]
故郷を 思ふ寝さめに ふる雨は 漏らぬひとやも ぬるる袖かな
再度(ふたたび)と 来るべき世ならぬ 我身をも 捨てるは君の 御為なりけり
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土佐藩参政の吉田東洋を暗殺した1人。脱藩し長州の久坂や薩摩に助けられ、
天誅組に参加したという。
作家の安岡正太郎を子孫にもつという。
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南国土佐へ来てみいや
p258
行く駒の 麦に慰む やどりかな [芭蕉]
ゆくこまの むぎになぐやむ やどりかな
貞亨2年(1685) 42歳
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駒と表現することで甲斐を指すという。
麦は夏の季語だという。
「麦秋」という語もあるが秋は収穫期の意で、あくまで夏だった。
馬が麦で疲れをとるように、自分も慰められたと感謝する。
季節と合わせ見事だった。
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山梨県立大学 芭蕉DB
豊永斧馬 [幕末]
白露と 消ゆる我身は 惜しからて 惜きは後の 名のみなりけり
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土佐の農民で、武市半平太に剣を習い砲術も会得し民兵になったという。
清岡道之助の計画に加わり捕まり斬られたという。
裕福ではあったのでしょうが、命を使う。
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二十三士の墓(福田寺)
p258
示子弟(一) [西郷漢詩]
私学校生教育の漢詩
示子弟(一)
平生忠憤氣
磅礴満寰宇
自得安心法
成敗守吾愚
平生の忠憤の氣
磅礴として寰宇に満たせ
自得せよ安心の法
成敗は吾が愚を守るにあり
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忠による憤りの気を天下に満たせ
自分で心を安んじる方法を見つけよ、
成敗は愚直を守ることだ。
なのでしょう。西郷は仏教は疎遠でしょう。
明治5年に留守政府を預かる中で仏教僧の妻帯許可を行っているので、少年愛に浸り腐敗していた僧たちを見て西郷の忠憤の氣を天下に見せたのでしょう。
ちなみに一向宗は元々薩摩で禁教であり、西郷の仏教観は極めて冷ややかなものでしょう。
生徒たちに安心は自分で見つけよというのは、そういう経緯もあるのでしょう。
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忠憤 コトバンク
明治5年(1872)4月25日の太政官布告 大阪府立中央図書館 (2120005)
p38
示子弟(一)
平生忠憤氣
磅礴満寰宇
自得安心法
成敗守吾愚
平生の忠憤の氣
磅礴として寰宇に満たせ
自得せよ安心の法
成敗は吾が愚を守るにあり
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忠による憤りの気を天下に満たせ
自分で心を安んじる方法を見つけよ、
成敗は愚直を守ることだ。
なのでしょう。西郷は仏教は疎遠でしょう。
明治5年に留守政府を預かる中で仏教僧の妻帯許可を行っているので、少年愛に浸り腐敗していた僧たちを見て西郷の忠憤の氣を天下に見せたのでしょう。
ちなみに一向宗は元々薩摩で禁教であり、西郷の仏教観は極めて冷ややかなものでしょう。
生徒たちに安心は自分で見つけよというのは、そういう経緯もあるのでしょう。
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忠憤 コトバンク
明治5年(1872)4月25日の太政官布告 大阪府立中央図書館 (2120005)
p38
戦没学生の手記から 八 [昭和]
くらき海 くらき眼をもて 見つめつつ ただひたすらに 合掌するも
(木村節)
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昭和20年7月、レイテ島カンギポット山にて戦死。日大美術科卒。22歳。
海ではなく山だった。海は「この世」で、しっかりと見つつも、絶望するな希望も持つな、という意なのやもしれません。
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戦没者慰霊碑巡り 【レイテ】カンギポット山登山
―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)
p269
821 飲みての後は 笠沙弥 [万葉集]
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし
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冠や髪にかざすが、宴が終われば散ってもよいとする。
終わってもいつまでも咲き続けて欲しい、と歌うのはキザでしょう。
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筑紫の国から『花つくし日記』
戦没学生の手記から 七 [昭和]
赤き実を 雀ついばむ 袋路に 吾をまつらんか 幸薄き叔母
(塚本太郎)
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慶応で人間魚雷となり21で戦死。と知り、つい高学歴で気の毒にと思ってしまう。
高学歴でなかったら、顔写真がないとそこまで思えないでしょう。
兵器そのもののことも考えず、非人間的な思考に陥る心理は自戒を込め怖いですね。
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―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)
p269
いざともに 穂麦喰はん 草枕 [芭蕉]
いざともに ほむぎくらはん くさまくら
貞亨2年(1685) 42歳
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道連れの僧に呼びかけた句だという。
金に困っている訳ではないが、僧に穂麦での野宿も付き合いますよと
親しげに示しているのでしょう。
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山梨県立大学 芭蕉DB
森川許六 [江戸]
今までは 下手が死ぬぞと 思ひしに 上手も死ねば くそ上手なり
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彦根藩重臣で多才な人だった。品の良い辞世ではないが、
「蕉門十哲」に数えられる位ですから上手なのでしょう。
見事な絵画でした。
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山梨県立大学 芭蕉DB
UAG美術家研究所
p104