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梅白し 昨日や鶴を 盗まれし [芭蕉]



  うめしろし きのふやつるを ぬすまれし



貞亨2年(1685) 42歳

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三井秋風の家に梅があった。
芭蕉は、故事から鶴を使って詠む。
相手が京の富豪で失礼にならず笑えるのでしょう。

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山梨県立大学 芭蕉DB








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本間資忠 [中世]


 
 まてしばし 子を思ふ闇に 迷ふらん 六つのちまたの 道しるべせん



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楠木正成の赤坂城を攻めた父が戦死。その弔い合戦前に天王寺の鳥居に血で書いたという。
父子の忠臣として太平記に記され浮世絵にもなったようだ。


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年英 英雄三十六歌撰 本間資忠 | 浮世絵 | 原書房 神田神保町


本間資忠 立命館大学アート・リサーチセンター



p235
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蒙使於朝鮮国之命 [西郷漢詩]

酷吏去来秋気清
鶏林城畔逐涼行
須比蘇武歳寒操
応擬真卿身後名
欲告不言遺子訓
雖離難忘旧朋盟
胡天紅葉凋零日
遥拝雲房霜剣横


酷吏去来して秋気清く
鶏林城畔を涼を逐って行かん
須らく比すべし蘇武歳寒の操
応に擬すべし真卿身後の名
告げんと欲して言わず遺子への訓
離ると雖も忘れ難し旧朋との盟
胡天の紅葉凋零の日
遥かに雲房を拝して霜剣を横たえん


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明治6年8月では遣韓大使の命がでて、出発するつもりで書いている。
渡韓の覚悟を蘇武(拘留)、顔真卿(縊殺)で示す。

西郷の巻物が80万円から出品される。七言律詩を6字づつ書いている。
語釈も書かれているが、8句をどう解釈するかなのでしょう。

交渉は決裂するが、宮城を遥拝。自決はできないので、
自分の剣を置いて共の者に首を斬らせようという意なのやもしれません。


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古美術・骨董品のオークション 古裂會 (こぎれかい)



p22





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戦没学生の手記から 五 [昭和]


 かくてこそ 人も果てなむ 爆雷に 打たれて魚 数多浮きをり

 蒼く澄みて 鴎の遊ぶ この波の 底黝(うすぐろ)き 死の光あり

 食もなく 衣寒くも ただ一日(ひとひ) 
              母子(おやこ)集ひて 語らむをのみ
                       
                           (馬場充貴)

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 ベトナムのナトラン沖で戦死。3首目は「母の希ひ」の枕詞があるという。
そう書いて自分の願いなのでしょう。


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―日本戦没学生の手記 (岩波文庫 青 157-1)



p267
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798 妹が見し楝の花 山上憶良 [万葉集]



妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに (798)

大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる (799)
                   


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憶良が旅人の立場になり長歌と反歌を贈った。
旅人の妻のことがここで分かる。
こんなことなら都に留め置けばよかった、いろいろな場所につれていけばよかったと、
5歳上の憶良から受け取った旅人は、「その通りです」と少し笑ったのでしょう。
 
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旅人の妻の死を悼んで山上憶良が詠んだ歌・・・巻第5-794~799







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大村益次郎 [明治・大正]

 
 君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思はるる 国の行末

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 明治2年に刺されて2か月後に大阪で亡くなる。
枕元の手帳の末尾に書かれていたという。
大村は和歌を詠まないので、長井雅樂の辞世を頂く。

長井は久坂や前原に暗殺されそうになり、後に「ぬれ衣」で切腹となる。
大村は木戸から100石で引き抜かれたが米25俵と反故にされたようだ。
そして刺してきたのが長州を含む攘夷過激派であり、
死に際になりほとほと長州が嫌になり長井に同情、彼の無念も知れるよう歌を頂戴したのでしょう。

第二の尊氏が西から攻撃してくると大坂鎮台を設置し備えさせたようだ。
「国の行末」は徴兵制に反対する薩摩兵と西郷をも想定しているのでしょう。

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神代直人の捕縛 -大村益次郎襲撃事件顛末-


花神 総集編 第4回 徳川を討て





p177
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水とりや 氷の僧の 沓の音 [芭蕉]



 みづとりや こほりのそうの くつのおと 



貞亨2年(1685) 42歳


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東大寺二月堂のお水取りという行事だそうだ。
旧暦2月であり、「氷」を使っているが、3月であれば極寒という訳ではないでしょう。
↓の動画では、松明の音、雅楽もありますが、深夜に駆け回る僧だったようだ。

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東大寺二月堂「お水取り」 1200年以上続く不退の行法










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小野寺丹子 [江戸]


 
 つまや子の まつらんものを いそげただ 
         
          なにかこの世に おもひおくべき


「つま」=「夫」

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赤穂義士・小野寺十内の妻。
大石内蔵助は元服した息子を加えて2人だが、親族から多くを出している十内を羨ましがったという。申し訳ないという気持ちだったのでしょう。
妻の丹子としては、残されたのは姑だけだった。姑も息子と孫3人を喪い、
直ぐに追ったのでしょう。丹子も支えを全て失う。


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夫婦共に歌人で和歌は赤穂藩随一の人 赤穂においでよ




p100
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武村卜居作 [西郷漢詩]


 卜居勿道倣三遷
 蘇子不希兒子賢
 市利朝名非我志
 千金抛去買林泉

 
 卜居を道(い)う勿れ 三遷に倣うと、
 蘇子は希わず 児子の賢。
 市利朝名は我が志に非ず、
 千金を抛ち去りて林泉を買いしなり。
 
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3句で明治6年下野あたりかなと思ったが違った。
明治2年6月に賜った償典録で後に私学校を建てるが、
この年に上之園から武に転居する。その際に詠む。

解説から多くを知る。
「卜居」土地の良し悪しを占って引っ越し先を決めたようだ。
「三遷」が孟子の母が子の教育のために転居を重ねた故事。
蘇武は自分が聡明であったために左遷されたため子の賢を願わなかったという。
「蘇東坡詩」を西郷は読んでいた。

司馬が言う西郷が桐野を好んだように薩摩人の学よりも気性を優先する本音でもあるのでしょう。
明治4年正月に上京し、6年10月末に下野、10年2月の出陣であり、
猟や湯で留守しがちだった晩年の住まいのようだ。

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西郷隆盛が育ち、最期も迎えた鹿児島城下 かごしまの旅




p17





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秋田常栄 [江戸]

 
 千金の 黄金も石に 異ならず ただ一心を 万金にせよ



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 父が秋田の出身だという。10年以上も佐渡で乞食同然の姿で「山」を探しまわったという。
父に連れられて佐渡に来て、骨を埋める。
父が名付けたのか、本人の自称なのか、石と名を子孫に残した。

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コトバンク


道遊の割戸



p94
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